金剛福寺の歴史・由来

四国最南端 足摺宇和海国立公園内にあり、境内は120,000㎡を誇る大道場。弘法大師はその岬の突端に広がる太平洋の大海原に観世音菩薩の理想の聖地・補陀落の世界を感得した。ときの嵯峨天皇(在位809~823)に奏上、勅願により伽藍を、建立、勅額「補陀洛東門」を受し、開創したと伝えられる。弘仁13年、大師49歳の頃といわれる。

大師は、伽藍を建立した時に 三面千手観世音菩薩像を彫像して安置し、「金剛福寺」と名付けられた。「金剛」は、大師が唐から日本に向けて投げた五鈷杵(別名金剛杵ともいう)が、足摺山の天灯龍灯の松にあると感得した。又、「福」は『観音経』の「福聚海無量」に由来している。

歴代天皇の勅願所となり、公家、武将から尊崇された。とくに 藤原氏、源氏一門の帰依が厚く、本尊三面千手観世音菩薩は、暦応元年 関白太政大臣藤原朝臣の寄与であり、源満仲は多宝塔を建てその子・頼光は諸堂の修復に寄与している。一条氏、土佐藩主山内氏の支えで寺運は隆盛した。

大師因縁の「足摺七不思議」といわれる遺跡が、岬の突端をめぐるように点在している。

平成大修理で境内に大池を作り、諸堂再興復興した。2022年に、金剛福寺開創1200年祭を執行した。

日本遺産「四国遍路」第三十八番札所 金剛福寺

四国遍路は、徳島県から始まり、高知県、愛媛県、香川県を一周する回遊型巡礼路で、「日本遺産」(文化庁)に認定されています。全長1400km。弘法大師の足跡をたどり、八十八の札所を巡る旅。歩けば一周約50日の道のりに、地域の人々が巡礼者を温かく迎える”お接待”の文化が残ります。遍路は、国籍や宗教の違いを超えます。

蹉跎山 補陀洛院 金剛福寺。四国最南端に位置し、太平洋を望みます。平安時代に嵯峨天皇 (在位809-823) の勅願により空海が開創したと伝わる、観音菩薩信仰の霊場になります。第三十七番札所 岩本寺から金剛福寺までは、四国霊場の札所間で最長距離の約80km、徒歩で3泊4日という過酷な道のりになります。「修行の道場」と呼ばれる高知県の遍路を象徴する札所です。


境内案内

下図は金剛福寺の境内案内図になります。仁王門をくぐると、嵯峨天皇勅額『補陀洛東門』が迎えてくれます。補陀洛の世界を、金剛福寺VRツアー(下記バナーをクリック)でお楽しみください。

蹉跎山(さださん) 金剛福寺略縁起 (俗に足摺山と云ふ)

四国霊場第三十八番札所にして、境内三万八千余坪、南海の古道場なり、今を去る一、一六〇余年の昔嵯峨天皇は「補陀洛東門 (ふだらくもん)」の勅額を降し、弘仁十三年大師 (空海) 勅を奉じて開創さる。本尊千手観世音菩薩 (せんじゅかんぜおんぼさつ) 、脇仏 (わきぶつ) 不動明王、毘沙門 (びしゃもん) 天なり、その後金峰 (きんぽう)上人住持の時天魔障碍す上人一指をあげて降(くだ)したるに磋詑(さだ)して退(の)きたるにより月輪山を改めて磋詑山となす。爾来皇室の勅願所となり又源家代々の尊崇する所となり多田満仲は多宝塔を建立し源頼光は臣渡辺綱をして諸堂を再営さる。大師御遺告に「名山絶暉 (ぜっけん) の処、嵯峨孤岸 (さがこがん) の原、遠然 (えんねん) として独り向ひ、掩留 (おんる) して苦行す」とある如く空海若き日の修行の聖地と云はれる。又縁起 (享録年、尊海法親王) に「我が国に於ては、四州孤山 (こざん) 金剛福寺は去斯不遠 (こしふおん) の補陀洛界 (ふだらくかい) なり」とある如く補陀洛 (観音) 浄土の地であり、補陀洛渡海 (とかい) の聖地である。

修行の地、霊験所と知られ全国の修行者、修験者 (しゅげんじゃ) のあこがれの地であり、岬突端にある大師の御遺跡や、一夜建立の鳥居などによって知ることができる。享録年間京都御室仁和寺より尊海法親王下国あり住職せられ戦国の武士も敢て狼籍するものなく寺領は土佐の西部に及び、大阪堺商人の信仰する所となる。隆りて長曽我部氏の一領具足の中にあって足摺山衆として、その名を知らる。山内氏土佐の国を領するや、古来の寺領を改めて百石となし藩王山内忠義 (寛永十六年) 寺塔を再興し爾来香煙絶ゆることなかりしが明治維新の変革に遭遇せるも補陀洛天狻僧正、再興し今日に至れり、南海第一の祈禱所であった。

寺宝多し古文書 (中世) の豊富なること他に例を見ず、幕末の国学者鹿持雅澄 (かもちまさずみ) 翁の萬葉集古義、遺品、遺著多数あり、昔より「七不思議 (ななふしぎ) 」とて天燈、竜燈の松、ゆるぎの石、不増不減の手水鉢、汐の満干手洗鉢午爾 (ごじ) の雨、根笹、亀石、竜の駒、大師一夜建立の鳥居、亀呼場、大師爪彫石、地獄穴、阿字 (あじ) 石、天狗の鼻等である。